当時、金がなかった拓郎が新宿の街で飲んだあと、アパートまで歩いて帰宅した夜に生まれた曲という。部屋でジェームス・ブラウンのバラードを聴いてしんみりした気持ちになり、「無性に染み入る曲が書きたい」とギターを手にしたところ、一気に書き上げられたといわれている。いわゆる「降りてきた⬇️」というやつだ。

「拓郎さんは、自分の作品の中で何が一番お好きですか?」という愚問をインタビュアーが投げ掛けると「自分の作品は全て自分の子供たちである」と宣言した拓郎。たくさんの我が子の中で、この子が一番好きと平気で言える親はいまい。なのでいつもテキトーに答えている拓郎だが、そういう時でもこの❝どうしてこんなに悲しいんだろう❞を挙げることが多い。
一番かどうかは別にして本人にとって深い思いのある作品なんだろう。プロの歌手として旅立つべくアウェーの東京に乗り込み、高円寺の一人ぼっちの部屋で、ホントに悲しくなりながら書き上げたというこの曲。人とつながる煩わしさと人恋しさ…という対極の歌う…
人と人とのあるべき距離を探すという、深奥のテーマが覗く。自分の心の中を彷徨うようなこの詞にこそ深くかつ共感されるのではないだろうか…🤔ファンはもとより、渡辺美里、竹内まりや、多くの音楽家たちの若き日のよりどころにもなっている曲だ。
アルバム人間なんてで正式録音された。加藤和彦のプロデュースのもと、松任谷正隆の心の襞を撫でるようなあのピアノで始まり、加藤和彦のギターが被っていく、不滅のヴァージョンの誕生だ。特にアコースティックギターの音を鳴らさないでカッティングだけやるという加藤和彦の方法は、拓郎には衝撃!😮だった。

加藤和彦との出会いをキッカケに、拓郎は、優れたミュージシャンたちを触媒にフォークという狭いジャンルを超えて、その才能を遺憾なく発揮して音楽界を席巻していく。その意味でも、ひとつのきっかけとなった作品だ。

松任谷正隆もアマチュアバンドに在籍していた学生時代、バンド仲間だったシンガーソングライターの楽曲アレンジ(手直し)を松任谷正隆が担当していた。その楽曲のデモテープが加藤和彦の耳に留まったことが、すべての始まりだった。加藤和彦は楽曲そのものよりも、「この風変わりなアレンジをやっているのは誰だ?」と、バックで流れる風変わりなハモンドオルガンの演奏と編曲のセンスに注目した。
当時、加藤和彦は自身の新バンドやレコーディングに参加する新しい才能を探しており、デモテープの主である松任谷正隆を探し出して連絡を取った。加藤和彦は松任谷正隆の独自のコード感やアレンジ能力を高く評価し、自身のスタジオやレコーディングの現場へ招き入れた。
そして、見事にスーパースター🌠となった拓郎は、76年フォーライフレコード第一弾の記念すべきアルバム明日に向って走れにこの作品のセルフ・カヴァーを収録した。身も心もボロボロになった男が、蘇生しようとその心の傷をそのままに歌いあげる。繊細で、儚いヴォーカルは類をみない。拓郎の歌の絶妙な巧さというだけでなく、満身創痍の状況で歌っいるような悲壮感があり、そんなシンガーはかつていなかった。まさに心の叫びだ!
やはりトノバン(加藤和彦)は2人にとっても最重要人物だったんよね。J★Rock(ジャパン🇯🇵ロック)のオリジンだったからね。トノバンは、衣・食・住・音のカリスマ✨️だった。日本のミュージシャンの中で最もお洒落だったのがトノバンである。

いつの間にか、コラム✒️が正隆ちゃん⇒拓郎⇒加藤和彦に変わっとる!😧やっぱトノバンは凄い人だから仕方ないね…🥴
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